年の瀬にふと考える、お話

帰省という作業がはじめて発生したのは、

僕が大学生になった2009年だった。

 

そこから更に7年が過ぎ、

今年も僕は埼玉県をぶった切る電車で、

年の瀬の足音を聞きながら、

こうして人生について考えるなどしている。

 

日々、無意識に生きている訳ではないが、

日常に忙殺され、このように何かひとつの事象に

想いを馳せる機会はそう多くない。

 

何が嬉しいかと問われれば、

何も嬉しくはないと答えるだろうし、

何が悲しいかと問われれば、

何も悲しくなどないと答えるだろう。

 

ただそこには、自分という意識が、

物質的実体としての自分を通じて、

喜んだり悲しんだりした1年が確実に存在している。

 

それに対して、御託を並べ立て、

一寸でもそれらしい形で新年を迎えようという

そういった類の取り組みである。

 

今年も大いに良いことをしたし、

大いに悪いこともした。

大いに金を使ったし、

貯金をはじめてみたりもした。

 

それだけのことを365日かけて、

せっせと行ってきた僕に、

輝かしい2017年が待ち構えていることは、

誰の目にも明らかだろう。

 

余談だが、僕は日本の文壇の最高峰に名を連ねる

約5名ほどの文章技法を完全に会得している。

 

活字のデパートとしての仕事が、

来年も僕を待ち構えていることは、

この奇妙な人生においてそう悪くないことだ。

的な。

 

p.s.

長時間の電車移動に耐えうるため、

楽な格好での帰省を試みるぼくは、毎年年末、

図らずもヨウジヤマモトやリックオウエンスに

陶酔する田舎者に成り下がる。

 

こんな格好で上越線に乗っていては、

地元のチンピラにカツアゲされるのも時間の問題だ。

 

それでは、皆々様

良いお年を。